グリーン・エコー第52回演奏会
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ブラームス
「運命の歌」
(1871)  Brahms "SCHICKSALSLIED" op.54
 「ドイツ・レクイエム」の成功に勇気づけられ、 大規模な合唱曲の作曲に意欲を持ったブラームス(Johannes Brahms 1833〜1897)が、ドイツの詩人、 ヘルダーリン(Friedrich Holderlin 1770〜1843)の詩に感激し、管弦楽と4声部合唱のために作曲したのが「運命の歌」である。
 テクストは、ヘルダーリンの書簡小説「ヒュペーリオン」で主人公ヒュペーリオンが歌う詩である。 古代ギリシアの神々や英雄達のいた時代に強い憧れを抱くヒュペーリオンはオスマン・トルコからのギリシア独立の反乱に参加するが、 現実の人間の姿に幻滅し、挫折する。 深く絶望した彼は、自らを慰めるため、若き日に作った「運命の歌」を歌う。 それは祝福された神々の描写と対比させて人間の絶えざる不安を描くものであり、恋人ディオティーマの死を暗示するものでもある。 ここには、フランス革命の時代に生きて、そこに人類の希望を見出すとともに、恐怖政治の問題に直面したヘルダーリンの姿が反映している。
 しかし、ヘルダーリンの本来の運命観は、人間は、苦悩、対立を経て浄福、愛、和解に達するというものであった。 小説においても、最後に主人公は、「世界の不調和は、愛し合う者同士の諍いに似ている。 和解は、その争いのさなかにある。 そして別れ別れになったものはみなまためぐりあうのだ。」との考えに辿り着いている。
 このテクストに対するブラームスの音楽は、管弦楽の前奏から始まる第1部分で、神々の平和で清浄な世界を「ゆるやかに、かつ憧憬をこめて」歌い上げ、 第2部分では、アレグロの4分の3拍子で人間の不安を激しく歌い、最後は絶望の中に静かに消えていく。 しかしブラームスはこの詩に惹かれながらも、悲観的な結末には満足ができず、最後にアダージョで管弦楽だけの後奏を付け加えることにより、 人間の不安と焦燥に希望を与え、和解の中で曲を終わらせている。
 詩人と作曲家の二つの世界は、差異を含みながらも重なり合い、「運命の歌」という一つの作品に結実したのである。(演奏時間約15分)
ブルックナー
「詩篇第150番」
(1892) Bruckner "PSALM 150" C-dur WAB.38
 祖父の代からオーストリアの片田舎の教師だったという家系に生まれたブルックナー(Anton Bruckner 1824〜1896)は 礼拝のオルガンを弾く父親の足台の近くに座ってその音色を聞き、合唱隊で歌う母親の傍らでその天使の声を子守歌として育った。
 「彼(ブルックナー)の心の核をなすものは敬虔の念」−クルト・ジンガーは彼の音楽の特徴をこう表現している。 幼い頃から身近に宗教的環境があり、彼のカトリック信仰はごく自然な感情として身についたものであった。 礼拝のための演奏以外にオルガンを弾かなければならないときにも、まずひざまずき、神の加護を祈ったと言う。 すべての演奏は「神のこの上ない栄光のために」なされたのであった。 19世紀後半は音楽史では世俗的音楽の時代であったが、その中でブルックナーは19世紀最大の教会音楽作曲家であると言われる。
 ブルックナーの創作は、主に交響曲とローマン・カトリック教会の儀式のための宗教的合唱曲に集中しているが、 後者ではオーケストラ付きの3つのミサ曲(第1番ニ短調、第2番ホ短調、第3番ヘ短調)及び「テ・デウム」、「詩篇第150番」が傑作として知られている。
 他の小規模な作品を含め、宗教的合唱曲の多くは、彼が教会の聖歌隊や世俗の合唱団と密接な関係のあった時期、 すなわち聖フローリアンやリンツ大聖堂のオルガニストとして活動していた時期に書かれており、その後、音楽院の教授の地位を得て、 ウィーンに移ってからは、彼はもっぱら交響曲の作曲に傾倒していく。 しかし、この二つのジャンルは、「交響曲第7番」のアダージョの一部が「テ・デウム」で用いられたり、 「ミサ曲第1番ニ短調」の「ミゼレーレ」の音型が交響曲第9番のアダージョへ歌い継がれるなど、作曲家の奥深いところでつながっていると言える。
 「詩篇第150番」は「テ・デウム」と並んでウィーン時代の数少ない宗教的合唱曲の1つであり、最後の大宗教曲である。 1892年、全ドイツ音楽連盟の音楽祭のために作曲されたが、当時ブルックナーはすでに「交響曲第9番」の作曲中であった。 それだけに管弦楽の扱い方は熟達の極みに達しており、輝かしく豊かな響きに満ちている。 テクストには詩篇の最後に位置する第150篇が選ばれ、ルター訳とは若干異なる訳が用いられている。 「ハレルヤ、主をほめたたえよ」と神を讃える詞の内容に応じて、暗い調性は避けられ、合唱とソプラノ独唱により力強く歌い上げている。 合唱は非常に広い音域をとり、曲後半の壮大なフーガにより気高い精神の高揚を伴い、クライマックスをつくり上げ、 最後の「ハレルヤ」を最高の歓喜の中で締めくくっている。 (演奏時間約8分)
ブルックナー
「ミサ曲第3番」
(1868) Bruckner "MESSE Nr.3" f-moll WAB.28
 「ミサ曲第3番ヘ短調」は、1867年から1868年にかけて、 ブルックナーがリンツ大聖堂のオルガニストとして活動していた時期の最後、「交響曲第1番」を作曲し、 急速にその独特な管弦楽法や交響曲様式を固めつつあった時期に書き上げられている。 その後の彼の創作活動が主に交響曲へと移っていくことから、言わば前期の宗教的合唱曲の集大成となる作品であると同時に、 ウィーン時代の交響曲作家としての大成を予感させる作品となっている。
 ブルックナーは、ブラームスと同時代に活躍し、後期ロマン派の作曲家として位置づけられる。 しかし、他のロマン派の作曲家たちが、人間主体、主観中心の音楽に向かう中で、 彼の創作は常に人間を超えた永遠なるものとの関わりにおいて行われており、その特質から彼は極めて孤立した存在であった。 彼の音楽には(交響曲においても)ローマン・カトリックの精神が流れていると言われるが、このミサ曲は、 そうした彼の宗教的な情熱が最も純粋に発露された曲であると言える。
 この曲のもっとも愛すべき旋律である「ベネディクトゥス」の旋律は、後に「交響曲第2番」に用いられ、 彼の諸交響曲のアダージョの母型となるものである。 また、「アニュス・デイ」では、「キリエ」の動機や「グロリア」のフーガ主題、「クレド」の諸主題を回想しながら、 クライマックスを築いていくが、これはベートーヴェンの「第9交響曲」の試みを引き継ぎ、ブルックナーの交響曲のフィナーレによく用いられる手法である。
 深い瞑想を込めた弦楽器を主体とする前奏に続いて、合唱が祈りの言葉を歌い出す「キリエ」、壮大な二重フーガが展開される「グロリア」、 全曲の中心となり冒頭から力強い合唱により信仰を宣言する「クレド」など、聴きどころは多いが、独唱を含め、 どの部分も決して華やかになりすぎず、全体の堅固な構成に溶け込み、合唱、管弦楽一体となって内面的な心の感動を歌い上げている。
 この曲は古今のミサ曲の最大傑作の一つと評されるものであり、初演のステージ練習を担当した指揮者のヘルベック(Johann Herbeck 1831〜1877)は、 練習の途中に、その音楽の持つあまりの重厚な迫力のため、極度の感動に襲われて、指揮台の上に倒れたと伝えられる。 そして初演後、ブルックナーを抱きしめて「私の知る最高のミサ曲は、この曲とベートーヴェンの『荘厳ミサ曲』だけだ。」と語ったという。
 なお、ブルックナーの作品は、作曲後何度も改訂が行われているのが特色であるが、このミサ曲も完成の年に最初の修正が加えられた後、 1876年と1881年、1890年以降にも改訂が行われている。 ブルックナーの作品の改訂には、ブルックナー自身の音楽的な欲求、性格が反映されたものもあるが、 シャルク兄弟など彼の弟子たちが、師の作品を世に出そうと、当時の聴衆の好みに応じて、大掛かりにカットを加えたり、 オーケストレーションの変更をするなど、本人の意に沿わない改訂も存在している。 そのため、ブルックナーの死後、国際ブルックナー協会が設立され、できる限りブルックナーの意志に沿った楽譜にしようと原典版校訂作業が行われた。 この編集の中心となったのが、ロベルト・ハース(Robert Haas 1886〜1960)とハースの仕事を受け継いだ レオポルド・ノヴァーク(Leopold Nowak 1904〜91)であるが、ノヴァークは、ハースの校訂態度を一部批判し、 校訂をすべてやり直したため、「ハース版」「ノヴァーク版」2種類の原典版が存在することとなった。
 今回の演奏では「ハース版」を使用している。(演奏時間約60分)

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